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八〇年代以降に浮上した「情報の非対称性」問題

八〇年代における金融ミクロ理論の発展により、情報の開示を徹底させても資本市場には「情報の非対称性」などがあるために必ずしも効率的な資源配分は行われないということがわかってきた。「情報の非対称性」はジョセフースティグリッツなどの経済学者によって明らかにされたものであるが、株式市場と債券市場の両方に発生する。株式市場においては、株主と企業経営者の間に情報の非対称性が存在する。すなわち株主が保有する経営者についての情報と、経営者自身がしようとしていること(情報)は完全には一致していない(対称でない=非対称)ことがある。

例えば、経営努力の成果のほとんどが株主に配分される株式制度のもとでは、経営者には企業努力のインセンティブ(動機づけ)が働かないので、経営者は株主の監視の行き届かないところ(情報の非対称)で自分たちに有利な支出を増やすとか経営努力を怠るといったモラルハザードをひきおこす。その結果、株式市場に入ってきた資金は必ずしも株主にとって効率的に配分されないという事態を発生させる。

債券市場においては、前に述べたエイジェンシー・コストもその一つであるが、情報の非対称性によって借り手のリスクに関する情報が投資家に伝わらないという問題が発生する。資本市場は銀行市場と違って貸し手(証券保有者)が転々と変わるので、借り手のリスクに関する情報を十分に把握しておくのはかなり難しいことである。借り手がどの程度のリスクのあるプロジェクトを行っているかが識別できない状況においては、貸し手は高い金利を支払う借り手に資金を提供する(社債を購入する)ことになる。

高い金利を支払うことのできる借り手は、一般的にはリスクの高いプロジェクトを行っている場合が多いので、このような状況においてはリスクの低い優良な借り手は資本市場から排除されてしまう。つまり、リスクに関する適切な情報が提供されない資本市場では、貸し手(投資家)はハイーリスクの借り手にのみ貸して、優良な借り手を市場から追い出してしまうという「逆選択」が発生してしまい、投資家にとって効率的な資金配分が行われないことになって
しまう。

政府が法律によって行う「情報の開示」は、効率的市場仮説に基づいて資本市場を効率的に機能させる必要条件にはなるが、開示された情報を解釈してリスクの程度を判断しなければ「情報の非対称性」などの問題を解決することができない。債券格付けは、ニ十世紀の初めに開始されて以降、投資家の代理人として、公開情報をもとに社債のリスクの程度を判定し、「資本市場の効率性の向上」と「情報の非対称性を取り除くこと」に貢献してきた。

ところが、八〇年代以降の金融市場の自由化や規制緩和によって起債者や金融仲介機関の自由度が増加したため、「情報の非対称性」を取り除くことが「公開情報」に基づく分析だけでは難しくなってきた。したがって、格付けの機能を十分に発揮していくためには、起債者による情報提供の協力(依頼に基づく格付けの浸透)が不可欠になっている。誰が格付けを行うか、とともに、誰が格付けを行ってはいけないかということも考える必要がある。

「悲しき唯物史観」の主張

こう言ってよければ、生活とは人生の「下部構造」である。私たちは霞を食って生きているわけではない。恒産なければ恒心なく、貧すれば鈍してしまう。私たちにとって経済が重みをもつのは、それが私たちの人生の下部構造たる生活の保障に関わるからである。しかし、この意味での自分の生活が大切なのは、自分の人生が大切だからである。自分の人生に意味を見出せなくなった人は、自分の生活への配慮にも意味を見出せなくなる。先の父は息子に「自分の人生を大事にしたければ、自分の生活を考えろ」と言うべきだったろう。そうすると今度は、「あなたのいまの生活は自分の人生を本当に大事にしていると言えるのか」という息子の反問に父は晒されるだろう。この反問に誠実に応えることは、それほど易しいことではない。

しかし、父が虚勢によって当惑を隠さず、この反問を一個の人間としてまともに受けとめ、日々の生活に追われてなおざりにしていた自分自身の人生の再吟味に心を向けるなら、「お説教」は消え、本物の「対話」が始まるだろう。結局、生活と人生は緊張を孕みっつも相互に依存している。生活できなければ人生の抱負を実現できないが、人生から意味の供給を断たれた生活は自己を再生産し続けるエネルギーを枯渇させてしまう。しかし、人生が生活に意味を供給できるためには、生活のための生活を超えた地平を生活に開示できなければならない。私たちの生は生活と人生の緊張を保持しつつ両者を統合していく営為である。生活は生の経済であり、人生は生の倫理であるが、両者の均衡をとりえなくなった生において生活と人生はともに崩壊する。

私たちの社会では、経済大国の絶頂期から構造不況に悩む現在に至るまで、この崩壊が進行しているように思える。生活が人生から遊離したというより、生活が人生を吸収し蕩尽することで自らも疲弊している。人生が生活を意味付けるのではなく生活が人生を意味付けるという「生活による人生の簒奪」が、人生も生活も貧困化している。会社という生活の場を人生の意味の供給源にし、自己のアイデンティティをそこに没入させてしまった会社人間の場合にそれが言えるだけでない。会社を保護膜として頼りにすることができなくなった人々も、強迫観念にかられながら「情報化とグローバル化の時代を生き残るために必要」とされた情報処理技能など新しい職能の開発とネットービジネスなど新しい稼得機会の確保に奔走し、そのストレスに耐え抜くために、新しい生活能力の獲得向上に新たな自尊の基盤と生き甲斐を求めつつある。「メディアーリテラシー」やら「ディジタル・ディヴァイド」などという言葉が人間の「格付け」用語として流通するという事態は、このような強迫観念の濁漫を象徴するとともに、それにさらに拍車をかけている。

私たちをいま支配しているかに見える経済の優位は結局、「時代の要請」や「トレント」とみなされた生活様式という溶媒の中に、人生の意味を溶解させてしまう価値形成力の貧困に起因する。一日に一〇〇回もケータイでメールのやりとりをしないと不安を抑えられない高校生たちや、同じ不安に駆られてパソコンの前から離れられず「買物にも出られない」とぼやくEメール症候群の主婦たちの出現を私たちは笑えない。生活の手段に人生の意味を簒奪させて生活自体をも狂わせてしまうような同調圧力に抵抗できない弱さ、そのような抵抗を生み出す価値を自己の内部に自律的に形成する力の乏しさという、私たちの社会の一般的特徴を彼らは戯画的に象徴しているからである。

「悲しき唯物史観」の主張とは逆に、この価値形成力の貧困は唯物史観が認識として敗北しながら、実践上の優勢をいまの私たちの社会において誇っていることを示す。実践上の優勢にすぎないがゆえに、実践的にそれを克服することは可能である。「より良く、より豊かに生きたい」という人々の希求が根底にある以上、価値形成力の貧困が私たちの生をいかに貧困にしているかを解明し、代替的な選択肢を提示することが、それを克服する実践の推進力になる。これは単なる貧困の経済的原因の説明ではなく、生の貧困化の意味の哲学的反省と、それを克服するための制度原理の政治哲学的考察を必要とする。「哲学の貧困」論を超えて「貧困の哲学」を再興することがいま私たちには必要であると言ってもよい。

大人は年齢に関係なく三割自己負担にせよ

成人したときにはすでに高度経済成長期に突入しており、この世の春を謳歌できた。彼らは、たまたまいいタイミングで生まれ、それより前の世代が血ヘドを吐くような思いをして築き上げてきたレールに乗っただけで、豊かな暮らしを手に入れ、財産形成することができた。もちろん同じ世代の人々の数が多く、世代内競争が大変だったと言うかもしれない。しかしそれは、所詮、新卒がほぼ全員就職でき、その多くが終身年功制でそこそこ出世し、差がつくといっても、課長どまりか、部長どまりか、役員どまりか程度の差しかつかない出世競争ごっこが大半だった時代の話。出世競争に負けたからといって無一文で放り出されることはめったにないし、ましてや命を取られることなどない。

だから、彼らは同情に値しない。もちろん、そのすぐ下の私たちの世代(私は一九六〇年生まれ)も似たり寄ったりである。社会人になってからバブル崩壊までの黄金時代はI〇年弱で、団塊の世代が羽振りのよかった期間より短かったが、まあ概ねいい時代に育ったことには変わりない。だから私たちの世代も同情に値しない。というわけで、結局、戦前・戦中に苦労した世代のためにつくった高齢者向けの公的医療制度の仕組みを、年金制度同様、団塊から私たちくらいまでの世代がただ乗りしようとしているのだ。繰り返すが、このあたりの世代は一割負担の特権を「もらうに値する」人生は送ってきていないし、ストックも十分ある。だからただ乗りを許してはならない。

原則七〇歳以上の人々の一割負担というのも、現在の七〇歳で廃止し、ラクをしてきた団塊の世代には応分の負担を強いるのが筋である。もちろん、団塊の世代に限らず、いまの六〇代より下は、基本的にはみな同じ条件だ。戦後生まれはそれ以前とは、生きてきた環境がまるで違うのだから、年金も医療保険もそこでいったん断絶して、別の仕組みにつくり直す。前にも述べた通り、健康保険制度は単年で回している短期更新型の保険制度なので、年金などよりはるかに簡単に別の仕組みに移行できるはずだ。そうしないと、社会保障制度そのものが破綻する。これまでの延長線上で考えていてはもたないのだ。

新しい医療保険では、全世帯一律で三割負担。年寄りだからという理由だけでは、負担軽減の理由にはしない。こうすれば自己負担が増える二割分の差額(これは現在でも数兆円分あるはずで、今後、団塊世代の高齢化の進展でさらに巨大な額になる)の支出削減効果は甚大だ。加えて、医療費は比較的選択の自由度が低い支出なので、もし、いまでも本当に必要な医療だけを高齢者が受けているのなら、きっと貯金や年金をこの支出に回すはずだ。塩漬けのストックが、ここでもネットでGDPに加算される消費に回るのである。すると若年層が多い医療サービス従事者の雇用増、所得増にも貢献する。

ただし、団塊の世代でも資産形成できなかった人などで、三割負担に耐えられない人もいるだろうから、そういう人に対しては、先述した新しい社会保険制度(長生き保険)の中に医療サービス給付も取り込んで、ナショナルーミニマム分のサービスはそこでカバーする。現行の社会福祉制度でも、生活保護受給世帯は健康保険が免除されるが、それと同じ考えである。長生きし、年を取ること自体は、もはやかわいそうでも不幸でもないいまの時代、高齢者が一様に不幸であるとか、かわいそうとか、そういう世界観はもう捨てたほうがいい。ある意味、年齢による差別である。

職場環境の変化

こうして企業が社員教育の余裕をなくしていく中で、新卒にさえ即戦力を求めるようになっていった。そのことが行き過ぎて、いつしか会社で働きながらでないと学べないような高度なビジネスースキルや、専門的な業界知識や技術までをも、新卒の学生に求めるようになつてしまったのだ。しかし結局、学生というのは仕事をしたこともなければ、専門的な業界知識や技術など持ち合わせているはずもない。そのまま現場に放り込まれたからといって、すぐに利益を生み出すビジネスパーソンに生まれ変わることなどありえない。しかし、「自己成長は自己責任で」という風潮が高まる中で、彼らは教育を受けられずに孤立し、そのまま社内失業してしまうということが起きているのだ。

今まで見てきたように、職場から新人を教育できる中間層がいなくなり、教育ノウハウが失われている。しかも企業が新人の即戦力化を求めるあまり、教育がおろそかになっている。そういう経緯で、職場における新人の教育がうまくいかなくなってしまった側面がある。しかし、当事者である上司や先輩たちは、そのことに気付けないでいる。今までは意識せずとも、右記のような問題がなく、自然と新人を教育できていた。むしろ教える側もそんな土壌で育ってきたので、「昔の新人社員はコーチングだなんだって特別な教育をしなくても仕事を覚えていた。今の新人が仕事を覚えられないのは、前向きに仕事に取り組む積極さやハンフリーさが足りないからだ」と、昔の感覚のままで新人を育てようとしてしまう。

しかし、ここ20年~30年の間に職場の様子はまったく様変わりした。IT技術の導入を中心に、仕事の仕方や他の社員とのつながり方に大きな変化が起きている。昔ながらの教育が通用しなくなっているにもかかわらず、環境変化にうまく対応できないでいるベテランや企業の存在が、若手の社内失業を加速させている側面もある。前出の内田研二氏は、「今日の職場を見渡してみるとき、一〇年前の職場風景から最も大きく変わったのは、一人ひとりの机上にパソコンが置かれるようになったことだろう」と指摘する。

どれだけ大事な仕事を効率良くやっているかは本人にしかわからない。外見では他人の仕事ぶりが分かりにくい。じっとパソコンの画面を見つめている人は、真剣に問題を考えている場合もあれば、表の罫線の消し方がわからなくて悩んでいる場合もある。まじめな顔で腕組みしている人は、大事な問題を考えている場合もあれば、前日の二日酔いで仕事に集中できない場合もある。忙しくキーボードを叩いている人は、重要な企画書を作っている場合もあれば、同僚に飲み会の連絡メールを流している場合もある。

昔であれば、働いている様子を見れば大体その社員の仕事ぶりを推測できた。手際が良いとか、困っているとか、トラブルに巻き込まれているとか、それなりに周りの人が感じ取ることができた。近くにいる人ほどその社員の人柄や能力もわかりやすかった。昔の職場では複数の社員が仕事を分担していたので、いい意味でも悪い意味でもお互いに干渉し合わなければならなかったからだ。ほんの10年前のオフィスは、まだPCが一人一台行き渡っておらず、社外とのコミュニケーションの中心は電話だった。例えば隣のデスクの社員が、取引先に電話をしながら、「OOの件は、××に制作をお願いするので2週間はかかりますね。全体的にスケジュールから遅れていますので、少し厳しいかもしれません」なんて話をしていたとしよう。上司であればそれを聞いて「○○、遅れそうなのか?」などと声をかけることもできた。現在のようにメールでパパツとやり取りが済んでしまう状態と比べて、各人がどのような状況にあるのかを把握しやすかったわけだ。

「最近の若い奴はコミュニケーションが下手になった」と嘆く上司もいるかもしれない。しかし、そうではないと内田氏は言うこれだけ情報伝達手段が発達しているにもかかわらず、社員間での業務の互換性は乏しく、離席中の社員に電話がかかってきても、「担当者がいないのでわかりません」と応えざるをえないことが多い。現代の職場では人間関係がドライになったといわれるが、人間が変わっだのではなく、仕事のスタイルが変わったのだ。情報交換が電話やFAXから電子メールで行われるようになると、傍目では隣の人が一日何をやっているのかわからない。仕事上必要な情報が他人の目や耳に触れず担当者だけに伝えられるからだ。

「日本主義」の提案

グローバリゼーションが進むなかで、日本が二十一世紀を生き抜いていくためには、まずは、世紀をまたぐ世界の動きをよく理解することか必要だ。二十世紀を振り返ってみるに、世界は資本主義陣営と社会主義陣営か対立している時代だった。ソ連、中国を代表とする社会主義陣営は、資本の暴走を抑え、人間の理性によって社会を管理しようとした。しかし、国家主導の計画経済がうまくいかず、結局ソビエト連邦とヨーロッパ社会主義陣営は崩壊し、資本主義社会への道を歩み出した。中国共産党のみか、主要国としては社会主義の理念を掲げているか、実態は国営企業か大幅に減り、経済の主体は外国の直接投資を受けた企業であり、市場経済か強まりつつある。会社の自由な活動か大幅に許されるようになり、共産党によって管理された資本主義社会であると言ってよいかもしれない。

今や世界全体か市場を中心とする経済体制になりつっあり、資本主義が世界共通の経済システムになっていると言ってよいだろう。今の資本主義だけが資本主義ではない。世界のほとんどの国を資本主義とひとくくりにしてしまったら、資本を得て成立し、利益を追求する会社か市場や社会において中心的な役割を果たす社会か資本主義というようなものになってしまい、あまり意味をなさない。実際には資本主義にたった一つの雛形があるわけではなく、製品市場、労働関係、金融、社会保障などの主要分野において、それぞれの資本主義には国ごとに特徴かある。

そこで、これらに着目して資本主義をいくつかに分類しようとする動きかある。たとえば、資本主義を、市場ペース型、社会民主主義型、大陸欧州型、地中海型、アジア型と五つに分類する例も示されている。経済活動の現状や現存する制度に着目した一つの合理的見方だ。一方で、社会を見る場合、政治、文化を上部構造、経済、生産関係を下部構造と見る見方もある。わたしとしてはさらにその下の部分、個人個人の人間の意識、人間の基本的行動基準に着目して社会を比較できるのではないかと考えた。それが、さきで試みたアメリカと日本の価値観の対比だ。社会は個人個人の人間の集積であるがゆえに、個人個人の特性が確実に社会に反映される。実際、日本人とアメリカ人には、基本意識、判断基準、行動指針などに本質的な差異があることを世論調査の結果によって数量的に示すこともできた。

これら、基本意識、判断基準、行動指針などをひとことで「価値観」としてまとめると、各国民間の「価値観」の違いが異なった社会を形成するということかできる。日本社会ぱ日本人の価値観によって形づくられ、アメリカ社会はアメリカ人の価値観によって成立しているわけだ。社会構造を導く個人の根本的な価値観をわたしは八つ規定し、それぞれの価値観軸において日本人とアメリカ人が対極に位置するように対比してみたが、これらの価値観によって、同じ資本主義であっても、日本社会とアメリカ社会の構造の違いをはっきり区別できたと思う。

そこで、わたしは日本人がこの八つの価値観に基づいて制度、システム、やり方などを追求することを「日本主義」と定義したい。日本主義などというと、戦前の高山樗牛らの天皇を中心とする国体護持の思想と誤解されそうだか、無論、まったく関係ない。①秩序、②和、③平等、④徳、⑤情、⑥社会、⑦安定、⑧長期的視点を優先する価値観に基づき、国と社会を動かしていこうという提案である。こうした抽象的な価値観をわたしたちか日頃意識しているわげではないか、よく見ると、目に見える制度の基礎をなしていることがわかる。もちろん、社会の基礎となっている制度は、さまざまな意見の対立のなかで、「妥協」の産物としてつくられることになるものだ。いろいろな考えのなかで、最終的には基本的な価値観に基づいて判断される。つまり、対比させた価値観のいずれかにウェイトを置いて、良し悪しを判断している、ということである。

全面講和の理論

「安保反対」の世論や大衆運動が、日本外交や国際政治のもう一つの行動主体として大きな役割を担ってきたのだという評価は、実に興味深く、重要なご指摘だと思われます。とくに、近年、反核運動やさまざまな市民運動が展開される反面で、そのような世論や市民運動にはたして何かできようかという批判が、運動の外から中傷として加えられたばかりでなく、運動に参加する人たちのなかにも自信のなさといいますか、疑いがあるだけに、いまご指摘をいただいた点は重要だと思うのです。先生がこれまで平和運動について発言してこられたいくつものご論文-たとえば「平和運動における心理と論理」や「軍拡の虚妄と市民運動」(いずれも『新版・核時代の国際政治』岩波書店、所収)を思いかえされます。

そこで、今後の市民運動の歴史的役割を明らかにするためにも、戦後の平和運動のもつ意味について、うかがいたいと思います。坂本「安保政策」に反対する運動が凝集して現われたのは、一つは一九五〇年の全面講和の時点、第二番目が一九六〇年の安保改定反対運動の時点、第三番目が六〇年代後半のヴェトナム反戦と沖縄返還運動、この二つは密接にからんでいます。第一の全面講和は、一九五〇年から五一年ごろですが、いうまでもなく、この時期に日本の講和が結ばれて、同時に安保条約が結ばれました。ここで忘れてはならないのは、日本の講和と安保は、戦後の国際政治史のなかで冷戦の最悪の時期に結ばれたものだということです。

それまでの冷戦が朝鮮で、つまり日本のすぐ隣りで熱い戦争に転化し、しかも一九五〇年の秋から一九五一年春にかけ、米軍は非常に苦戦し、結局、戦局は膠着状態に陥った。アメリカは朝鮮で計画通りの行動がとれず、その結果深い心理的な敗北感がアメリカをおおうことになります。それは、中国革命の成功に対する反動として、アメリカ国内でマッカーシイズム的な赤狩りへと続く時期でもあったわけです。だから要するに、冷戦のなかの最悪の熱戦の時期であり、しかもその熱戦のなかでも米国にとり最悪の時期に、対日講和と安保の交渉がまとまっていくわけです。つまり二重に最悪の時期になされた選択によって、その後の日本外交のレールが敷かれたのです。

ここでついでに付言しますと、これが日本の再軍備の始点でしたが、この時の状況と八〇年代の日本の軍事化をめぐる状況とにヽある類似性があります。つまり、米国の地位が経済的にも軍事的にも低下し、米国内で露骨な反共主義を掲げるレーガン政権が登場して、冷戦が再び最悪に近い状態に陥った、その時点で、日本の軍事化のレールが決定的に敷かれようとしてきたのです。日本の政治指導者に歴史を見る眼が欠けているという憂いを禁じえません。

ところで、この講和をめぐる選択にあたって、「安保政策」への反対、当時の言葉でいえば「全面講和論」が主張されて、平和問題談話がそれの思想的・理論的な裏づけをしました。これがそのあとも民衆運動の指針になったのですが、そこであらわれていた目的価値、つまり何のためにいったい全面講和を主張したのかということと、理論的根拠、つまりいかなる理由で全面講和を主張し得たのかということを見ておく必要があります。

不合理な労働条件の禁止とは

有期契約労働者については、期間の定めのない労働契約を締結している労働者と比較して、雇止めの不安があることによって合理的な労働条件の決定が行われにくいことや、処遇に対する不満が多く指摘されています。これを踏まえ、有期労働契約の労働条件を設定する際のルールを法律上明確化する必要があるとの国の政策により、有期契約労働者の労働条件と無期契約労働者の労働条件が相違する場合において、「期間の定めがあることによる不合理な労働条件の禁止」が立法されました。労契法第20条は、期間の定めのがあることによる不合理な労働条件の禁止として「有期労働契約を締結している労働者の労働契約の内容である労働条件が、期間の定めがあることにより同一の使用者と期間の定めのない労働契約を締結している労働者の労働契約の内容である労働条件と相違する場合においてはヽ当該労働条件の相違はヽ労働者の業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度(以下この条において「職務の内容」という。)、当該職務の内容及び配置の変更の範囲その他の事情を考慮して、不合理と認められるものであってはならない。」と定めました。

この条文で注意すべきことは、「差別的取扱いをしてはならない」(労基法第3条、第4条)とか「均等の取扱いをしなければならない」とか「均衡を考慮した処遇をしなければならない」といったことを求めているのではないということです。その労働条件上の取扱いにおいて差異があってもいいのですが、それが「有期労働者」であることを理由とした「不合理と認められるものであってはならない」という一種の宣言的な規定を定めているため、その効力や意味する内容に限定があるということになります。「同一労働・同一賃金の原則」が適用されるのではない。わが国では、正社員と有期労働契約を結んでいる非正社員との間では基本的な企業内における雇用関係が異なっていますので、一般的には同一労働条件の処遇という問題は発生しません。

また、同じ仕事に従事していても、長期雇用システムに立った一時点の担当業務としてとらえられる正社員と、その仕事のための雇用という形で業務が特定されている有期雇用社員との間では、同一労働・同一賃金の原則というのは成り立ちません。そもそもわが国では、同一労働・同一賃金の原則そのものが法律上のものとしては適用されないのです。このことは判例上も明確になっているといえましょう。例えば、「被告は、嘱託職員である原告に対し、本務職員に比して著しく低い賃金しか支給しなかったところ、このような取扱いは、労働基準法3条の規定が禁止する労働者の社会的身分を理由とする差別的な取扱いに当たり、また、公の秩序となっている同一労働同一賃金原則に違反すると主張する。

しかしながら、本務職員と嘱託職員という雇用形態は労働基準法3条の『社会的身分』に当たらないと考えられ、このような雇用形態の違いからその賃金面に差異が生じたとしても、同条に違反するということはできない。また、我が国においては、未だ、長期雇用が予定されている労働者と短期雇用が予定されている有期雇用労働者との間に単純に同一労働同一賃金原則が適用されるとすることが公の秩序となっているとはいえない。前述のとおり、被告においては、本務職員は長期雇用が予定されているのに対し、嘱託職員は短期雇用が予定されているところ、本務職員の場合には、長期雇用を前提に、配置換え等により種々の経験を重ね、将来幹部職員となることが期待されており、これを受け、その賃金体系についても、年功序列型賃金体系、すなわち、労働者の賃金がその従事した労働の質と量のみによって決定されるわけでなう。

年齢、学歴、勤続年数、企業貢献度、労働者の勤労意欲の喚起等が考慮され、当該労働者に対する将来の期待を含めて決定されている以上、かかる観点から嘱託職員の賃金との間に一定の差異が生じることはやむを得ず、原告の主張するような差異、すなわち、期末手当の額の差異及び各種手当の有無による差異があるからといって公の秩序に反するということはできない。したがって、その余の点について判断するまでもなく、不法行為に基づく損害賠償を求める原告の請求は理由がない。」(立教女学院事件、平20・12・25東京地裁判決、労判981・6)として請求が棄却されています。また、「嘱託職員という地位は自己の意思によって逃れることのできない身分ではないから同条の『社会的身分』には含まれないというべきである。よって、本件賃金処遇が労働基準法3条に違反し違法であるとはいえず≒本件全証拠によるも、現時点の日本において、特定の労働がいかなる価値を有するかを評価する基準が確立し、それに対していかなる水準の賃金が支払われるべきかの判断基準が確立しているとはいえない。

百年かわらぬ風景ウラジオストク

現在の極東地方のとりとめのない流動、振動、変化の観察に疲れ、溜息を漏らしかけるとき、わたしはこの本を読み返す。ロシア人がこの本に描かれたような民族である限り、短期的には知らず、長期的には希望は十分にあると説得されて、ひそかに心安んじるのである。ユーラシア大陸の東の果て、シベリア鉄道ウスリー支線と東清鉄道の終点、「東征せよ」と名づけられた軍港ウラジオストクである。一八九一(明治二十四)年、ここでシベリア鉄道起工式が行なわれた。ロシア皇太子ニコライはこれに出席するため海路東方へ向かい、途中日本に立ち寄った。神戸に上陸して京都から大津へと至ったとき警備にあたっていた一警官に突然切りつけられ、頭部に傷を負った。警官の名は津田三蔵といい、当時日本に蔓延しつつあった恐露病の、もっとも過激な症状の患者だった。

このとき日本全土はロシアの復仇戦争におびえ、喪家のように静まり返った。その数年前、清国北洋艦隊が長崎に示威寄港したおり、長崎町民は清国兵の狼籍に反抗もならず雨戸を立て、ひたすら息を殺して北洋艦隊の出航を待ったのだが、状況ははるかに深刻だった。年若い近代日本は、官民ともにみずからを弱国と認識していた。政府は津田をとりおさえたふたりの車夫に叙勲し、市井の若い一婦人は、ぜひとも怒りを解かれたいとロシア王室に書き遺して自刃した。高官を急ぎ神戸へと向かわせ、治療静養中の皇太子の座乗する露軍艦におもむいて国内の病院への入院を懇請したが、受け入れられなかった。のみならず露軍艦は予告なしに抜錨し、長崎をへてウラジオストクへと去った。日本は暗漕たる空気に支配された。当時、ロシアが戦ってとうてい勝てる相手ではないこと、東方への領土拡大欲の旺盛な巨人であることは国民的常識となっていたからである。

しかしロシアには開戦の意図はなかった。その意欲はもっぱら遼東半島の旅順と大連、および朝鮮半島の元山に向けられていた。が、皇太子は終生頭痛に悩まされ、皇帝ニコライ二世となったのちの優柔不断ぶりもその後遺症だといわれた。このときの皇太子の道筋を、長崎のあとに済州島を加えただけでほぼ忠実になぞったのがゴルバチョフ大統領で、それは大津事件のちょうど百年後、正確には九十九年と十一ヵ月後のことになる。モスクワとウラジオストクには七時間の時差がある。サハリンとなら八時間、国内に一日の三分の一の時差を出さなくてはならないほどまでに、ロシアはなぜ肥大しつづけたのだろうか。

その根源的な動機は恐怖心だと考えられる。皮肉なことに、防衛的な心性を秘めた国ほど膨張意欲が活発で、それは中心部からできる限り国境を遠ざけておきたいという欲求のあらわれである。ナポレオンの東征、ヒトラーのソ連邦侵入、そして日露戦争における満州戦線、ロシアの戦うスタイルは一貫している。主力を温存する会戦を重ねながら順次退き、敵の兵粘線が仲びきったところを大軍をもって押し包んで一気に壊滅させるのである。距離と寒さ、このふたつこそがロシアの防衛の根幹であるという考えかたは、中世以来刻印されたように揺るがなかった。国境を遠ざけたいという欲求は、中国にも伏流している。毛沢東は、だからこそ新中国建国直後の不安定な時期に新疆ウイグルの確保に執着し、チベット併合に踏み切ったのだった。

外敵の暴力的侵入には正面対決を避けて奥深い懐に引きこみ、「人民の海を自在に泳ぎながら」ゲリラ戦を展開する、それが毛の生涯変わらない考えだった。おなじ発想の作戦を、師団単位軍団単位で展開するのがロシア軍の体質である。過剰に防衛的な資質の国家が隣接するとき紛争の陸続するのは歴史のことわりで、日本も小なりとはいえ大津事件以後急速に防衛的性格を増した。日本にとっての「遠い国境線」は朝鮮であり、そこで両国の利害が衝突すれば、もはや戦争は避けがたかった。一八七八(明治十一)年七月二十三日、駐露特命全権大使榎本武揚はペテルブルグを出発した。当時樺太(サハリン)は帰属あいまいのまま日露両国民が混在し、次第にロシア人南下の趨勢となっていた。成立間もない日本政府は樺太防衛に割く余力なく、いっそ樺太を、やはり所属あいまいなウルップ以北全千島と交換して北辺の整理をつける意図で榎本を派遣して、すでに七五年、いわゆる「樺太千島交換条約」を結ばせていたのだった。

朝鮮人から教えられていた朝鮮の姿とは

窓にはもちろん窓ガラスなどなく、代用品として白いビニールが貼りつけてあった。部屋の壁は、金日成と金正日の肖像画が飾ってあるスペース以外にはすべて新聞紙が貼られているため、もともと壁がどんな色でどういう素材だったのかさえわからなくなっているのだ。部屋のなかの物で、裸電球の電燈のほかにあった家電製品は、一四インチの白黒テレビ一台だけであった。そのテレビには、いかにも大事な物というように赤い布カバーが被せられていた。テレビを置く小さな机の上にはロウソクが何本か立てられていたが、教師は「これは停電の時に備える必須品だ」と説明してくれた。台所には赤黒い錆に覆われた大きなガスコンロが置いてあったが、それが日常的に使われている雰囲気はとこにも感じられなかった。コンロのそばには大きな七輪とやや小さめの七輪が一台ずつ置かれているのはそのためだろう。

ガスの供給が頻繁に止まるため、練炭で火をおこせる七輪は平壌の一般家庭には必須品だ、という話はよく聞く。小さい七輪の方は普段の食事の支度などに使われ、大きな七輪の方はもっぱら冬の暖房のために使われるのだという。これはわずか七分間の潜入であったが、最初に家を訪れたときに交わした「こんにちは」という朝鮮語の挨拶以外、筆者は事前に約束した通りに終始無言を通したのだった。彼らの家庭を訪れる以前にも、ある程度の貧しさは想像していたのだったが、まさか夫婦二人そろって教師をしているという家庭が、これほどひどい暮らしをしているとはショックだった。それまでに見せられてきた朝鮮や聞かされていた朝鮮、また朝鮮人から教えられていた朝鮮の姿とは大きなギャップが感じられたのだった。

朝鮮では、衣類などについては配給制を採っているため、購入する場合は定期的に配られる生活用品配給券を使わなくてはならない。労働者は通常、年に二回作業服を支給され、一般公務員や技術者の場合には三年間に一度、中級公務員や学校の先生であれば二年間に一回スーツの生地が配られるという具合だ。小、中学生は二年に一度、金日成の誕生日の祝いの日に新しい制服を贈られることになっているが、たいていの場合、子供の発育の方が速いため、手足が伸びて袖などが短くなってしまう。そのため親たちは時々、元の生地とは違う布で袖やズボンの裾の部分をつぎ足さなければならない。靴には配給制はない。国営の商店で安い靴は買えるが、概して質が悪く、三ヵ月も履けば破れてしまうものばかりだ。金のある権力者たちは、高級品を扱う特別な商店やヤミ市場で高級靴を買えるため、朝鮮では街を歩いている人間の靴を見て、その人の社会的地位を知るのである。

朝鮮では筆者も何度か、両足の靴底の色がパラパラなゴム靴を履く少年を見かけたのだが、こうした子供はほぼ間違いなく、どこかの自由市場から展示品の靴を盗んできて履いているのである。なぜなら、靴の展示品は絶対に片足分しかしないため、別々に盗んで一足にするしかないのだ。吉林省に住む朝鮮からの脱北者の話によれば、盗む品物が手近にあるのはまだましな環境であるという。さらに田舎に行けば、大人は草畦を履き、子供はたいてい、廃棄タイヤをはさみで切り取って紐をつけたサンダルのようなものを履いているのだという。食糧の配給制は、朝鮮では一九五七年から実施されてきたのだが、当時、一般国民の一人一日当たりの米の配給量は七〇〇グラムで、軍人は九〇〇グラム。六十歳以上の老人は五〇〇グラムだった。一九七三年からは「戦時食糧の備蓄のため」という理由で、配給量は従来の約一〇%減とされた。

その後、一九八七年には、政府が「世界ユース競技大会」の平壌での開催を理由に、さらに食糧配給の量を一〇%削減した。九〇年代に入ると、配給量はさらに頻繁に削減されるようになり、一九九四年になると一般国民の一人一日当たりの配給量は四〇〇グラムにまで減っていたのである。そして、朝鮮が大災害に続けて見舞われた九五年以後には、この配給量はついに一人一日当たり一〇〇グラムまでに減らされた。二〇〇七年一月、平壌から北東に約三五〇牛口離れた九江村で大雪が降り、少なくとも四十六人が一夜のうちに凍死してしまった、という驚くべき情報が平壌の中国大使館経由で中国に寄せられたこともあった。

問われる自立の気概

沖縄県が基地に対し、撤去や、反対といった強固な態度をとらないでいるからこそ、政府が次々に振興策として資金を投入するのであることは、だれの目にも明らかである。二〇〇六年十月三十一日、大臣就任後初めて沖縄を訪れた高市早苗沖縄担当相が、沖縄本島北部振興策と普天間飛行場移設問題に関連して「まったくリンクしないという表現は当てはまらない」と明言している。その後、高市沖縄担当相はこの発言をあいまいにしたが、最初に沖縄担当相が明言した通り、政府の姿勢ははっきりしている。政府が次々と沖縄に資金を投入するのは、基地に対する沖縄県民の怒りのマグマが溜まらないように、爆発しないようにとの思惑も働いている。

私には思い出すことがある。沖縄が復帰する前、米軍は軍に友好的な地域に優先して橋を作ったり、公民館を建設するなどしていた。これは当時、「高等弁務官資金」と呼ばれていた。あの当時から三十年以上が経ち、沖縄でもほとんどの人が忘れかけていると思う。しかし、いまの沖縄は米軍統治時代の高等弁務官資金を想起させるような状況が続いている。沖縄には「命どう宝」という諺がある。命に勝るものはない、どんなことがあっても命を大事に、という意味で使う。琉球王朝最後の王・尚泰が明治政府による琉球処分で首里城を明け渡して沖縄を離れねばならなくなったとき、「戦さ世んしまち/弥勒世ややがて/嘆くなよ臣下/命どう宝」(戦の時代は終わった、やがて平和な世がやって来る)という琉歌を詠んだと伝えられているもので、あの凄惨を極めた沖縄戦を生きのびた県民が、心と身体に深く刻みつけた人生訓にもなっている。基地に対する抗議行動を起こす場合も、「命どう宝」といって米軍に立ち向かう。

しかし、いまの沖縄を見ていると、私はなにか違う方に向かっているのではないかと感じてしまう。お金が回り、豊かになるのはもちろんいいことに違いない。ところが現実の沖縄は、基地と引き換えの振興策が次々に打ち出されるため、知らず知らずのうちにお金に振り回され、そして、お金を当てにするようになっているのではないだろうか。沖縄はいつのまにか、「命どう宝」がさかさまになって「宝(=お金)どう命」に変わりつつあるのではないかと思う。もともと、沖縄には「物呉ゆすど我御主」という諺もある。これは「ものを与えてくれる人こそ主人である」という意味で、沖縄の事大主義と関連させて使われることが多い。一部には逆にとらえて、ものを与えない、幸せな生活を実現しないような人は主人ではない、という新しい解釈をする人たちもいるにはいるか、前者の意味が一般的だと思う。

こういうことから考えると、「物呉ゆすど我御主」が形を変えて「宝どう命」になっただけとみれば、県民の意識が根底からひっくり返ったともいえないのかもしれない。沖縄でよく歌われる新しい民謡に「黄金の花」(作詞・岡本おさみ、作曲・知名定男)という曲がある。知名さんに聞くと、これは中東や南米などから日本に出稼ぎに来た人たちへ心を込めた愛の歌であるという。この曲は出稼ぎの人たちに対してというより、いまの沖縄の内に向かって歌われているような気がする。

政府は沖縄が復帰した後、米軍統治が長く続いて遅れた沖縄の振興のために、一九七二年から各期間十年、三次三十年にわたって沖縄振興開発計画を策定、およそ七兆円を超す資金を投入した。三次計画が終了した後も二〇〇二年から十年の間、それまでとは若干性格を変えた振興計画を策定、引き続き沖縄の振興に取り組んでいる。この間、確かに道路や橋、空港、学校など公共施設、インフラは目を見張るほど整備された。にもかかわらず、沖縄はいまなお経済的に豊かになったとはいえない。振興開発計画で第二次産業の育成に力を入れたはずなのに逆に二次産業は減少するばかりで、第三次産業が肥大化を続けるという皮肉な結果になっている。

政府による振興開発計画によって沖縄は公共事業依存、財政依存が進行、自立するまでには至っていないのが現状である。巨額の財政投資が沖縄の経済を財政依存型にしてしまい、自立の目を摘んでしまうという形になっている。自立という言葉は沖縄では経済界をはじめとし、復帰後ずっと叫ばれてきた。ところが、あれから三十年以上が経つたいまなお、同じことがいわれている。なぜ同じことが叫ばれ続けて、それが実現しないのか。公共事業依存、財政依存型の経済構造が定着してしまったからでもあるが、自立を叫びながら、実は真剣に自立しようとしてこなかった面もあるのではないだろうか。

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